ご質問、ありがとうございます。

 

遊方之外の診療キャリアをふりかえってみると、

一風かわった医師いういくつかのユニークな特徴がうかびあがります。

 

① 週休5日の医師

② 治療がむずかしい患者がまわされてくる医師

③ 指導医がいない医師

④ 現代医学の常識にとらわれない医師

⑤ 「こころ」と「からだ」を同時に診る医師

 

ひとつひとつ見てまいりましょう。

① 週休5日の医師

医師3年目にして分不相応にも大規模診療所の院長に抜擢されたわたくし。

昼も夜も休日もない多忙な診療生活のすえに、うつ病となって働けなくなると、あっさり解雇されました。

悔しくてたまりませんでしたが、裁判で不当解雇を争うようなことをする代わりに、

仕事のために「いのち」を削って寿命を縮めることは一生涯しないようにしよう、と心に誓ったのです。

 

そのことがあってから、わたくしの医師としての仕事は週に2日のみで、いまも週休5日の生活です。

当初は、週2日から仕事を再開して、少しずつ勤務日数をふやすことも考えていましたが、

週5日は探究と修行にとりくみ、週2日だけ診療する生活が、わたくしには最適であることがわかりました。

このペースで探究・修行と診療活動をおこなえば、90歳になってもこの生活をつづけてゆく自信がもてます。

 

その一方で、過労死寸前の医師がたくさんいるなかで、わたくしが半隠居的生活をしていることを非難する声や、

わたくしが国立大学医学部の授業料を免除されたことから、より国家国民に貢献すべきと説得する意見もきこえてきます。

それについては、わたくしなりに考えがあって、上記の批判や要請に応えるべく探究・修行にいそしんでいるのです。

 

② 治療がむずかしい患者がまわされてくる医師

医師をしていると、ふつうに昼間はたらいた上に、定期的に夜勤がまわってきます。

働き方改革のさなかに、まさに医師の超過重勤務の実態が大問題となっています。

週に2日、昼間だけはたらくわたくしは、平均的な医師とくらべると仕事量は3分の1〜4分の1くらいでしょう。

 

その一方で「医療の臨床経験が長くなり多くなるほど、治療の腕はあがる」という経験則があります。

みなさまも、きっとそう信じておられるにちがいありません。

たとえば、5年目の医師と15年目の医師なら、だれでも15年目の医師を受診したいのが人情というものです。

 

では、圧倒的に診療時間や患者数が少ないわたくしは、治療成績が極端に劣っているでしょうか。

大方の予想に反して、そんなことはないようです。

むしろ、ほかの医師には治せなかった患者を治療でよくすることがしばしばあります。

そうなると、よその病院やほかの医師では治すことができず転々となさってきた患者さんを、

最終的にわたくしが担当することになり、ようやく症状が好転するようになることがけっこうあるのです。

 

よその病院やほかの医師が治せないということは、現代医学の標準的医療が役立たなかったということです。

そのような患者さんには標準的な医療以外に、工夫をかさねなくてはいけませんから、

さまざまなアイディアを出して、慎重かつ大胆に独自の治療法を開発しなければ対応できないのです。

 

そして、よその病院やほかの医師が治せない病気は、ほとんどが「からだ」と「こころ」の両方にまたがっています。

そればかりか「魂」や「先祖」の問題、「生き方」や「考え方」などの問題が入りくんでいることがほとんどです。

こうなれば、医学だけをまなんで医学部だけを卒業した医師には、とても対応できなくなるのです。

 

現代の医学には「からだ」の専門医も、「こころ」の専門医もいますが、

人間全部を、「からだ」と「こころ」を、同時に診る医師には「専門性」はなく、ただ「全人性」があるだけです。

現代教育の弊害は、数量化できる対象だけをあつかう「科学」だけが正しい知識を考える点にありますが、

「全人間性」としてのひとりの人間は、数量化できる要素だけで成り立っているわけではありません。

 

その象徴が「」です。人間が死んだとき、何が変わるというのでしょうか。

医師が死亡判定するとき「瞳孔の散大・呼吸停止・心拍停止」をその徴候としていますが、

人間が死んでも、60兆個もの細胞はまだ生きています。

毛髪も爪ものびるし、体温はまだ残っている。

すべての細胞活動が最終的に停止するのがいつなのか、真剣に考えようとする人はいません。

瞳孔の散大・呼吸停止・心拍停止を確認すれば、人間が死亡したと判定するルールが決められているだけです。

奈良時代であれば、人間が死亡したことをきちんと確認するのに一年もかけたのです(殯といいます)。

 

」ひとつとってみても、数量化して人間をとらえることがむずかしいとおわかりになるでしょう。

だから、現代医学の多くの難問が「数量化できない人間」をめぐってまきおこっているのです。

ますます現代医学が「数量化できる科学」に猪突猛進すればするほど、問題は複雑になっていくのです。

専門家・細分化される科学的な現代医学が、かえって人間を治せなくなることは、皮肉ではなく当然のことなのです。

 

③ 指導医がいない医師

診療時間も患者数も少ないわたくしが、むずかしい患者さんを治してゆくのには、きちんとした理由があります。

わたくしが指導医をもたなかったことも、おおきな理由でしょう。

ふつう、医師は何年もかけて指導医から教えられて臨床技術をたかめていきます。

裏返せば、指導医の治療哲学や技術がたたきこまれるだけのことです。

しかし、患者の治療のたびに指導医に指示されていては、自分で判断を迫られる機会を失いつづけます。

 

わたくしは指導医がいない代わりに、すべての患者に丁寧に接して、五感を総動員して情報を収集し、

選択肢となる医療技術を総点検して、一所懸命に治療にとりくんできました

研修医を終えてからは、すべての治療を、だれにも頼らず、自分自身で責任を負ってとりくんできました。

そのおかげで、診断と治療について慎重さと大胆さをおおきくのばすことができたのです。

どんどん新しい患者さんを診てゆくので、診療領域が広がり、いまもわたくしに不得意に感じる診療分野はありません。

 

そのためもあって、わたくしはあえて「専門医」資格をもとうとしません

専門医はせまい専門分野にとじこもりやすく、専門以外の疾患を自分で診ようとしなくなりそうでイヤなのです。

医療は全人間的でなくてはならない、つまり「こころ」も「からだ」も「魂」も診る医師として、

得意分野と不得意分野を分ける専門医にはなりたくありません。

 

そんなわたくしでも、ほかの専門医の方が明らかに患者さんの利益になるだろうと判断すれば、

迷わずそちらへ患者さんを紹介しています。

患者さんの利益が、何よりも最優先されるべきだからです。

けれども、そうでないかぎりは、すべての患者をわたくしが診るようにしています。

すべての患者を自分の責任において診察することは、とても勇気が要ることですが、

精一杯の努力をかたむけてきたおかげで、「からだ」と「こころ」を同時に診療できるようになりました。

果敢でもあり、無謀でもありましたが、幸いにして、いままで医療ミスに遭遇したことはありません。

 

④ 現代医学の常識にとらわれない医師

エチゾラム(一般名デパス)というとても有名な抗不安薬・睡眠薬があります。

不安と不眠でなやむ患者によく効くので、たくさん処方されていることでも有名な薬です。

ただ、依存性がとても強いので、患者は頼りすぎて、やめられなくなります。

精神科医や心療内科医ではない医師でも、エチゾラムを処方しておけば、

患者の不安や不眠の症状をやわらげられるため、安易に処方されるケースが跡を絶ちません。

そのため、エチゾラムをやめられない人の増加がとても大きな問題になっています。

 

わたくしは、けっしてエチゾラムを処方しない数少ない医師のひとりです。

エチゾラムさえ処方すれば、不安や不眠の症状はわりとカンタンにおちついていきます。

だからこそ、かえって、エチゾラムの処方が医師の治療能力をせばめる要因となっているのです。

エチゾラムが著効するため、医師もエチゾラムに頼り、ほかの治療法を考えようとしなくなります。

エチゾラム処方でやりすごしてきた医師は、エチゾラムで症状がおちつかなくなると、

もう打つ手はなくなり、それ以上の臨床的な治療手段をもてなくなります。

 

あえて、わたくしは、エチゾラムなどの依存性が強い薬剤は処方しない、と心に誓っています。

安易なエチゾラム処方を断念することにより、わたくしはさまざまな工夫をしなくてはなりません。

しかし、工夫さえすれば、エチゾラムよりはるかに優しい薬剤でも症状はおちつくのです。

そのような工夫をかさねてこそ、医師は患者のあらゆる症状に対応できるよう成長するのです。

エチゾラムで症状がおちつかない患者こそ、わたくしが大歓迎する患者さんだということになります。

エチゾラムをやめてもらうことは、じっさい、それほどむずかしい治療ではないのですが、

それを広言すると、エチゾラム依存患者の専門医師になってしまうため、大きな声では言わないようにしています。

 

ちなみに、さきほど手記をお寄せくださった50代女性もエチゾラムをやめられませんでした。

10年以上にわたってよその精神科でエチゾラムを処方されて、ひどい副作用が出ているのに、やめられない。

わたくしの在宅診療を間近にみているうちに、わたくしに相談してみようという気になられたのです。

ご相談の内容は、しかし、相当むずかしいものでした。

エチゾラムからの脱却を、薬剤をまったく使わないで治療しようとめざしたからです。

このときばかりは、夢の中でも懸命に治療法を考えこんでいました。

わたくしは、むずかしい症例にあたると、夢の中で必死に治療法を検討するようになります。

そして、夢の中で思いついた治療法が、とてもうまく奏功するのです。

彼女の場合、薬剤を処方することなく、生活指導しただけでエチゾラムをやめてもらえました。

こういう治療経験をつみかさねることが、わたくしの診療能力を成長させてくれるのです。

 

また、あの手記にでてくるおばあちゃんは、身体の老衰ではなく、脳のバランスの悪さが原因でした。

全国屈指の「よい病院」の数名の医師が口をそろえて「もう亡くなるばかりだから、食べさせるな」と

厳しい口調で言われたようで、しょげて自宅にお戻りになったところに、わたくしが訪ねたのでした。

見た目には、たしかに生気もなく、やせおとろえて、このまま枯れるように亡くなりそうでした。

ところが、半年前までさかのぼって問診しているうちに「何かがちがう」と感じるようになりました。

「もしかすると、このおばあちゃんは3ヶ月後には歩けるようになっているんじゃないか」と思ったのです。

その考えを口にするのは、さすがのわたくしにも勇気が要りました。

息子さんとその奥さん(彼女)があわてふためくように驚かれたご様子を、いまも思いうかべることができます。

このときも、とくべつなことをしたわけではありません。

少しの薬剤変更にくわえて、漢方薬を併用しただけです。

予言どおり(?)3ヶ月たって歩けて食べられるようになったとき、ほんとうに嬉しかったのです。

 

⑤ 「こころ」と「からだ」を同時に診る医師

現代医学の医師は「専門医」資格を取得することが勧められています。

そのために、医学は各臓器や各疾患ごとに細分化されて専門化されて行きます。

じっさい、保険診療では、わたくしのような非専門医より専門医の方が診療費を高く請求できます。

 

そのなかで、現代の難病というべき疾患群が生まれてきています。

それは、各専門の境界線上や、さまざまな専門分野にまたがる疾患群、

そのなかでも、「からだ」と「こころ」の双方を横断する疾患群です。

 

「からだ」の専門医もいるし、「こころ」の専門医もいます。

でも、「からだ」と「こころ」を同時に診る専門家がいません。

皮肉なことに、「からだ」と「こころ」を同時に診る医師には専門分野などありえないからです。

 

人間はひとりです。全体です。綜合です。

「こころ」と「からだ」から人間ができあがっているとしても、

「こころ」と「からだ」に分解することはできません。

「こころ」と「からだ」は別物だとかんがえるデカルトのような人もいますが、

脳を研究していくほど、脳と身体は不可分に一体化していることがわかります。

「こころ」と「からだ」だって、けっして分けられるものじゃないことがはっきりしてきます。

 

その証拠に、「こころ」をよくすれば「からだ」はよくなるし、

「からだ」をよくすれば「こころ」はよくなるほんとうに病気が治癒するのです。

 

うつ病は「こころ」の病気だということになっていますが、わたくしはそう考えていません。

うつ病は「からだ」の病気です。

その証拠に、「からだ」をよくすれば、うつ病なんてカンタンに治ります

じっさい、このわたくしがうつ病でたおれて解雇されたとき、この方法で再起を果たしたのです。

 

そういうわけだからということもないのですが、わたくしは、うつ病の治療も得意です。

とくに、自殺企図(自殺未遂)をした患者の治療がいちばん成績がよいのです。

ある朝のこと、わたくしがふだん診ている患者が、その弟くんを病院に連れてきました。

弟くんが昨夜自殺企図をして、救急車で搬送されて、病院で一泊したのを患者がひきとりに行って、

その足でまっすぐわたくしのところに連れてきたのです。

一見して治せると思ったので、漢方薬を一剤だけ処方して、ひとつ課題を出しておきました。

弟くんはすぐに宿題にのめりこんで夢中になり、課題を楽しみに通院するようになりました。

その課題というのは、日本の古い神話である『古事記』を丹念に読みとく作業でした。

 

『古事記』にはだれにもわからぬように暗号がちりばめてあるので、

その暗号の読み方がわかると、本文とはぜんぜん別の「ホンモノの物語」が浮かびあがってきます

ホンモノの物語」には傷ついた人間が癒され、たちなおり、再起させる力が宿っています。

3ヶ月もたたずにすっかり元気に回復したのですが、会社からは半年の休暇をもらっているし、

わたくしが『古事記』を読み解くのを聴きたいがために、きっちり半年間通院しつづけました。

いよいよ社会復帰するというとき、彼がわたくしに言った言葉が忘れられません。

「先生、心配いらないよ。もう、あんなバカは絶対しないから。

 あんなに自分を追いつめるようなことはしないし、そうなるまでにさっさと逃げちゃうから」

 

抗うつ薬で体調が回復するとリワーク(会社復帰)するのが、うつ病治療の目標ですが、

ほぼすべての人がうつ病を再発して休職をくりかえすのは、

弟くんのように根本的な人間の変革がなされていないからです。

うつ病は往々にして「こころ」の問題に帰されるのですが、

わたくしは、うつ病は「からだ」の問題ととらえているのです。

そう考えるからこそ、うつ病患者には『古事記』を読み解く作業を勧めるのです。

すぐれた神話は「こころ」で読むものではなくて「からだ」で読みとかれるものだからです。

 

ここに、心療内科という医療の本質があらわれているのだ、と考えるのです。

もし、心療内科という分野の医療をもっとお知りになりたい方がいらっしゃれば、

夏樹静子著『椅子がこわい 私の腰痛放浪記』(文藝春秋刊)をごらんください。

心療内科医の治療の奥深い威力を、心底から味わうことになるでしょう。

 

さらにご関心を持たれた方は、わたくしの『古事記』講義にご参加ください。

空前にして絶後なる日本人の叡智にふれる機会を提供いたします(ゆふ しこを)