I 神医たちと


神医たちはみな富裕な名家の生まれ育ち。貧しく愚かな家庭に生まれついたのは私だけ。おもしろいのは、名家の彼らが私の生まれと育ちを心底うらやましがることだ。名家育ちの彼らは数千年の伝統を背負わされて、世界の裏のリーダーとして君臨させられてきた。物心つく前から、人の上に立つための帝王学をたたきこまれてきた。何不自由なく守られながら厳しくしつけられて柔軟さと強さを育ててきた。ほかの人間に負ける経験がいちどもないから、勝つことがあたりまえになってしまっている。それゆえに彼らはこの難問に今日も頭を悩ますのだ。生まれ変われるのなら、やっぱりこの人生を選ぶだろうか、と。人の目を気にせず、やりたいことばかりやりとおしてきた私が、胸を張って「生まれ変わっても、やはりこの人生を歩むよ」と宣言すると、彼らは頭をかきむしって悔やしがる。彼らはそろって傑出した家庭教師の薫陶をうけて、自国の最高学府を出てから、たいていハーバード大学で研鑽を積んでいる。それで、現代の最高の教育を受けたつもりでいる。それが彼らの屋台骨をつくっている。ところが、風来坊の私が一段すぐれた直観を披露するたび、彼らの心は穏やかでない。だいたい、私が支払った授業料のケタがまるで違う。ハーバード大学でも授業料は年間数百万円ですむらしいが、私がヒマーラヤでまなんだ教えは軽く数億円はかかる。それだけではない。お師匠たちはとても気むずかし屋なので、弟子を気に入らなければ、どれだけお金を積まれてもけっして教えようとはしないのだ。ネットワークを駆使して教えにあずかろうと努力しても、近づくことさえ認められない。要は人間力の問題だ。他人に教育されてきたのか、自発的に自分からまなんできたのか。それが教えを授かる決定的な資質を分ける。ともかく大切なのは他人との競争ではない。自分の中にねむる能力を生きているうちにどれだけ掘り起こすか、にかかっているのだ。じっさい、人間はどんどん「退化」している。昔の人間ほど能力を発揮できていたのだ。人間の最高の叡智は人類最古の書のなかに記しこまれている。日本では『古事記』だし、中国では『易経』なのだが、あまりにも難しすぎて、現代ではだれにも読めなくなった。そして、このふたつの書物が人類全体の叡智の最高峰をしめしている。これよりすぐれた叡智になるともう文字では表現できない。ヒマーラヤでは今日もそれを教えているのだ。神医との対決は油断ならない真剣勝負になるのでとても愉しい。だが、彼らは敵でもライバルでもない。ほんとうに油断できないのは深くねむりこむ自分自身だ(Dr. Shikoh)




世界の医療には三つある。ひとつは科学分析的な西洋医学。ひとつは全体統合的な東洋医学。最後のひとつは超越的な呪術医学だ。神医たちと議論すると、つねにこの三つの医学が話題にのぼる。このうち、現代社会でいちばん流行しているのが西洋医学だ。明治以降の日本では、大学の医学部のカリキュラムは西洋医学と定められている。これは西洋医学がもっとも単純で、理解しやすく、教育しやすいことが大きく影響している。現代世界で医師を名乗るには、最低でも西洋医学の知識と技術を身につけておかなくてはならない。だからといって「西洋医学を身につけていれば医療を完結できる」とは絶対に言えない。西洋医学をごくカンタンに説明すると「死体」の医学である。死んだ人の体を細かく解剖して、要素に分けて、要素ごとの関係性を調べるわけだ。そして各要素の名前を覚えて、それがどう関係し合うか理解すれば、西洋医学はマスターできる。炭水化物を食べるとアミラーゼで分解されて、小腸からとりこまれて血流に乗ると、膵臓からインスリンが分泌されて、ブドウ糖が細胞内へとりこまれて、解糖系でATPが、ついで電子伝達系でATPが産生される、という具合に生理構造を説明する。でも、人体は究極の神秘であるから、この程度の説明で人体のダイナミズムを解明することはできない。だから、こんな医学的説明では納得しない医師は東洋医学の診療にとりくむ。東洋医学は「生きたままの人体」をみて、ダイナミックなメカニズムを観ようとする。目で見えぬものをみるので「観る」と表現するのである。古来、目に見えるのものは「見える」といい、目に見えないものをみるのを「観る」といった。人体を観るのは才能ゆたかな医師にしかできないことなので「一子相伝」とか「門外不出」の秘術といわれてきた。だから、江戸時代以前の医師は、良医と藪医者が一目ではっきり区別できた。西洋医学と東洋医学のあり方はどうちがうのか。それはじっさいに診療をしてみるとよくわかる。西洋医学はいま目に見える症状だけを見て消去しようとする。私も未熟な研修医時代は、とにかく現在の症状だけをみて消去しようとした。ところが、東洋医学はそんな診療をおこなわない。東洋医学は、現在の症状が将来にわたってどう変化してゆくか観とおして統合的に対応する。患者の心身が将来にわたりどう変化してゆくのかわからなければ、心身統合的な治療にはならない。神医たちの話では、みな最低でも2週間後までの症状変化を考えて治療していることがわかる。深く意識したことがなかったが、私も2週間くらいのスパンを観て治療をおこなっている。そのとき、西洋医学の薬ではなく、東洋医学の漢方薬(と鍼灸)を使うことになる。漢方薬は長期のスパンにおよぶ心身全体の変化にふさわしい薬効を期待してつくられている。そんな治療なら今回参加した医師が全員実践している。だが、その先「呪術医療」に話が及ぶと、ついてこれない医師たちが現れはじめる。呪術医療は、分析的でも綜合的でもなく「超越的」とでも表現するしかない。呪術医療は2週間や1ヶ月というような短期間ではなく、この生と死後をひとしく見すえた永遠の視座において治療する診療だ。此岸と彼岸をむすぶという意味で超越的だとされている。ヒマーラヤで神と称される医師はこのレベルまでは達しなくてはならぬ。そんな私の言葉についてこられない医師もいる一方で、この程度の医療で落伍するのは医師としての自覚が甘すぎる、私たちはどこまでも貪欲に人間の医療を追求していかなくてはならぬ、と賛同してくれる医師もあらわれて、私は息をついた(Dr. Shikoh)