患者の看取りはつらいが、しっかり看取ることができたと感じとれた。はじめ、Kさんは強い不安を訴えていた。「苦しい、つらいよ」が口癖。身体の苦しさよりも不安で胸がいっぱい。心因性の苦痛の治療が大の得意のわたし。薬が効いてKさんはぐんと安定した。苦しくなくなり「長生きしたい」と言いはじめた。だが、3月に生命の危機をむかえた。元気なので特効薬を減らしていた。薬をもどすとKさんは息をふきかえした。酷暑の夏をうまく乗りきったが、体力は目にみえて低下した。「薬がのどに貼りついて苦しい、飲みたくない」という希望で薬を中止して一週間後に、世をしずかに離れた。前日にデイサービスで入浴を楽しんだ。一年間の育児休暇から職場復帰した看護師と往診したうららかな春の日、「 Kさんはお亡くなりだろうと思ってたのに、お元気でした」と彼女がつぶやいた。その光景がよみがえる。Kさんの終わりの日々は窯変した。長く生きられたことより、穏やかに前向きに晴ればれと過ごされたことが、うれしい。家族と看護師と Kさんのいさぎよい姿を見られたことがうれしい。悲しみの場が、わたしの眼には明るく映った。Kさんの顔を思い出すと、安楽死について話してみたくなった。

                                                                                                               

「生きていても仕方がないから、先生、死なせてください、お願いします」という患者さんがほかにもいる。冗談めかしているが、わずかに本気も混じっている。「医師は人を治すのが仕事で、死なせるのは仕事じゃないよ」とごまかすが、きちんと説明していると診療時間がパンクする。安楽死について聴きたいという人を集めて講演した(10月13日、次回は11月17日午後、テーマは多数決で、年内最後になる予定)。Kさんを看取ったので、講演することができた。テクストに使ったのは、橋田壽賀子さんの『安楽死で死なせてください』(文春新書)の序文の冒頭部。著書として公刊なさっているので、橋田壽賀子さんの安楽死をめぐる公式表明にたいして医師からの回答をこころみるという趣向になった。
                                                                                                                
死に方くらい、自分で決めたい
「もしも『安楽死させてあげる』って言われたら、『ありがとうございます』と答えていますぐ死にます。生きていたって、もう人の役に立ちませんもの。自分が死ぬなんて長い間考えたこともなかったのに、九十歳になって仕事がだんだん減ってきて、ほかに考えることもなくなったら、『あ、もうすぐ死ぬんだ』と考えるようになりました。私はどうやって死ぬんだろうか。認知症になって何もわからなくなったら、生きていたくない。意識がしっかりしていても、身体が動かなくなったら、生きていたくない。楽しみがなくなったら、やっぱり生きていたくないと思うんです。可愛い子どもや孫がいて、その顔を見るために生きていたいとか、ずっと生きていてほしいと望まれるなら別です。私なんか、夫にはとうに先立たれ、子どもはいません。親戚づきあいもしてきませんでした。会いたい友だちや思いを残す相手もいないし、生きていてほしいと望んでくれる人もいません。天涯孤独の身ですから『もう、いいや』と思っています。あとはもう、他人に面倒をかけたくないだけ、身の回りのことが自分でできなくなって、下の世話から何からしてもらって迷惑をかけるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。死に方とその時期くらい、自分でできないかなと思うのです。人に迷惑をかける前に死にたいと思ったら、安楽死しかありません。でも日本では、安楽死は認められていません。だからできれば、法律を作って認めてもらいたいと思っています。とはいっても九十歳を過ぎた私には、間に合いそうもありません。どうしたらいいのかなと思ってスマホで調べてみたら、いろいろな情報が書いてありました。外国に行けば、安楽死させてくれるところがある。七十万円払えば、死なせてもらえるらしい。『これはいいな』と思いました」(『安楽死で死なせてください』橋田壽賀子著(文春新書)の「はじめに」の冒頭)
                                                                                                                
橋田さんの願いは大きな反響をまきおこして、新書として公刊されることになりました。橋田さんのように死を見つめ、安楽死を願う日本人はたくさんいらっしゃるのです。
                                                
        
救急的な心療内科医として、まず考えなくてはいけないのは、橋田さんの心身の状態をたしかめることです。脳梗塞やパーキンソン病や認知症やうつ病や糖尿病やがんの有無をしらべることになります。そういう疾患が人間の考え方に大きな影響をあたえることがよくあるからです。もし病気がみつかって、それが治療できるのなら、その治療をおこなうことが推奨されます。安楽死を願う考えに影響している要素を減らすことがかなり期待できるからです。もし、心身にはっきりとした疾患が見つからなくても、心療内科の治療が残されています。おもにストレスからくる心身の名状しがたい不具合をたてなおすのは、心療内科医の得意とするところです。Kさんもそういう状態だったのです。
                                                  
      
もしも、心身にはっきりとした疾患がなく、また心身症的な症状も見いだされないときは、そのときは、橋田さんの脳の状態が正常ではないと判断します。これは脳の血管動態や神経結合という器質的な異常をいうのではありません。脳が病気なのではないけれど、あるべき状態におちついていないと判断するのです。具体的には、脳の教育がまちがっていて育っていないと考えるのです。橋田さんは日本女子大学や早稲田大学で学ばれた経歴がありますから、獲得した知能レベルには問題がないといえるでしょう。では、脳のどこに問題があるのでしょうか。それは脳のなかで価値判断をする部分です。価値判断は知性でおこなうと思われがちですが、そうではありません。人間は価値判断を情動(情緒・感情)でおこなっているのです。情緒(情動)がよくはたらかないと、正しい価値判断ができなくなることがあります。
                                                                                                                
ずいぶん前に、アメリカで風変わりな銃乱射事件がありました。とても快活な元狙撃手が無差別な大量殺人を犯したのです。多数の武器をそろえて、事件直前に自分の恋人や家族を殺すなど用意周到でしたが、「だれかこの計画をとめてくれ」という悲痛な胸の内をメモに残していました。理性が凶行を押しとどめようとしていた可能性が浮上したのです。射殺された死体を解剖するとおおきな脳腫瘍がみつかり、情動がはたらく脳部位をつよく圧迫していたことが判明しました。
                                                                                                                
ここで反論が予想されます。「安楽死を希望する」のがなぜ正しい価値判断ではないのか、という反論です。その質問にたいするこたえはカンタンです。もし、未知の現実的で良識的な価値判断が存在して、橋田さんがその選択肢を選べるとしたら、きっと橋田さんはこの現実的な方法を選んで、安楽死は希望されないでしょう。橋田さんが抱えこんでいるほんとうの問題は「安楽死の希望が正しいか、まちがっているか」なのではありません。橋田さんは窮屈な世界に閉じこめられているのです。「僕らを幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものを表現することはできないが、そういう壁があることをはっきり感じる」と語ったのはヴィンセントという貧しい画家でした。大切なのは、自分を幽閉し監禁する壁を呪ったり、たたきこわすのではなく、そんな壁はあっさり乗りこえてしまうことです。橋田さんは「もっとよい選択肢が存在するのではないか、もしそうものがあるとして自分はそれを実行できるのか」と問いなおすことができるのです。
                                                                                                                
50歳をこえたばかりの青二才医師が100歳前後の患者をたくさん担当しています。年齢にして半分にすぎないわたしが、100歳高齢者と同輩のように接しています。ご家族は間近でその様子をご覧になっているので、よくわかりますね。生きるとか、死ぬとか、の問題については、わたしの方がむしろわかっているようです。その秘密は若い時分にとりくんだ禅宗の坐禅修行とチベット密教のヨーガ修行にあります。学問も仕事もそっちのけでとりくんだおかげで、わたしの情緒を司る脳部位はかなり鍛えあげられました。脳神経同士をつなぐシナプス構造が、みなさんとはずいぶん違うようにできあがっています。だから、生きるとか、死ぬことが、見え方がまるで異なります。「死ぬなんて考えたこともない、死に方がわからない、認知症になると生きる価値がない、身体が動かないと生きる価値がない、人に迷惑をかけて生きたくない、さぁそうなると、私には安楽死しかない」という短絡的な一直線の思考が、どちらかというと、脳の成熟レベルの問題に見えてくるのです。
                                                                                                                
認知症になると生きたくないとは、認知症の方の尊厳をなんだと考えるのでしょう。生まれつき身体が動かない人もいらっしゃるのに、そんな方々の人生をどう考えているのでしょう。橋田さんだってだれかの尊厳を傷つける気は毛頭ないでしょう。きっと、自分自身の場合にかぎって、そう考えて、そうおっしゃっているのだと思います。それでは、橋田さんは、橋田さん自身の尊厳をどう考えているのでしょう。やっぱり、自分の尊厳のためには、安楽死が不可欠だとおっしゃるのでしょうね。それでは、自分の尊厳のために安楽死が第一選択肢ではないと知れば、どうなさるでしょうか。もっとよい選択肢があって、くふうと努力をすれば、それは実現可能だということがわかっても、安楽死を望むのでしょうか。もっとよい方法があれば、多少の困難をのりこえても実行してみる意欲と勇気はお持ちでしょうか。短い診療時間のうちに、こんな話をはじめると、わたしがのめりこみすぎて、とまらなくなって、同行の看護師に叱られてしまうのです。帰宅が遅れると、待ちわびる小さなお子さんたちが迷惑するのです。
                                                                                                                
橋田さんの吐露は、現代日本人に共通する大問題です。日本人の教育と教養の大問題です。教養と教育は、知能の問題だと考えられがちですが、知能なんて、そんなに人生の役に立ちません。人生をよく生き、うまく生き、しっかり生き、たのしく生き、豊かに生きるために必要なのは、情緒なのです。知能の育成には「うんこドリル」が役立ちますが、情緒の育成には先人の智慧と導きが絶対不可欠になります。
                                                                                                                
わたしは医師ですから、情緒を育てることを医学的にお話しようと思います。織田信長は桶狭間の戰にのぞんで謡曲「敦盛」を舞ったそうです。「人間五〇年下天のうちをくらぶれば」ですね。なぜ、人間の人生が五〇年なのでしょうか。たしかに、人間といちばん近縁の霊長類であるチンパンジーの寿命はほぼ五〇年です。人間は長く生きようとすれば長く生きられます。人間の寿命は120年といわれています。チンパンジーと人間のDNAは99%ちかく同じなのに、チンパンジーは人間の半分も生きられないのです。人間は自分のDNA構造を変えることはできませんが、DNAのはたらきを変えることはできました。だから、人間は同じような生命設計図をもつチンパンジーにはありえない長寿と健康を実現できたのです。
                                                                                                                
人間が100年をこえて生きられるのは、生物ではじめて「更年期」を発明したからです。サケは大海原を旅して、産卵するために故郷の川に帰ってきます。高低差のある滝やクマの魔手をものともせず、川をさかのぼって身をボロボロにして産卵すると、生命を終えます。生物は自分の子を産みおえると、長く生きられないようになっています。チンパンジーもそうです。子どもを産めなくなる年齢にたっすると、生きる必然性をうしなうのです。50歳をむかえるとかならず死ぬという非情な宿命に我慢できなくなったのか、人類は生命世界でもっとも厳しい難問に挑戦することにしました。子をつくらなくなっても生きつづけるにはどうすればよいか。そのこたえを人類は見つけだしたのです。だから、人類は寿命を50年から120年までぐんと伸ばすことができたのです。現代のノーベル賞研究者をかき集めても、こんな偉業の達成はとうてい不可能でしょう。はじまりの人類はとてつもなく賢かったのです。人類が子をつくるための身体器官のはたらきをリセットして、心身全体の構成をアップデートしてみると、240パーセントも寿命が伸びました。この生理的イノベーションは自己改造的な生命操作でしたが、古い伝説や神話にみられる奇跡の宝というのはこの生命技術の叡智を象徴したものです。
                                                                  
この生命的叡智をもたなければ、生がわからなくなり、死を恐れるようになります。こんな人々は「生殖期」の生き方を追求して「更年期」にアップデートできないのです。たとえれば、仕事で成功して、富を得て、名声を高めることが「生殖期」の生き方の特徴です。弱肉強食の動物界で子をつくり育てることは、生きるか死ぬかの生存競争です。「人生は生きるか死ぬかの生存競争だ」といって動物界の幻想をまじめに信じる人々がいます。死ぬか生きるかは、奪うか奪われるかでもあるので、成功者はたくさん財産を残しますが、親族や関係者は財産の取りあいで激しく争いながら、当人を老人施設に押しこめてしまうと、あとは放ったらかしです。「生殖期」的な人々は他人から奪うしかないと信じていますが、裏返せば、つねに自分には必要なものがそろわないと感じているので、不平不満をかかえています。同じ不平感をもった人々が市場に集まってきては、奪いあいをくりかえすのです。けっきょくのところ、この生き方は、自分の力で生きてはいないことになります。自分の力で生きるということがわかっていない、と言っても同じです。自分の力がわからないから、豪邸や宝石や美貌や資産や名声や肩書きや権力で証明しないとバカにされると恐れているのです。現代日本人の典型的な生き方ですが、わたしには理想的な人生像には見えませんね。そこはさすがに世界の最先端をいくアメリカですね。若者の間でこんな生き方に背を向けるのが流行して、アメリカ経済にも大きな影響をあたえつつありますね。トランプさんが反面教師を立派につとめているのです。
                                                                                                                
「更年期」の生き方についてもお話しましょう。どんなに過酷な時代にあっても、どんなに貧しくひどい生活をしていても、平気で満足に長生きする人々がいます。親鸞さんや良寛さんの享年をみてください。こういう人たちは、どんな時代や境遇でも、平気な顔で生きることができます。この人たちが考究して実践していたのは「更年期」の生き方です。仕事をせず、お金もなく、肩書きもないが、豊かに生きました。他人の迷惑なんて気にとめないのに、人々が慕って世話を焼いてくれました。「モノや金など不要、天地がすべて与えてくれるんじゃから」という人間らしい矜持にどっしり腰を据えていたのです。生がわかるから死もわかる。死に方がわかれば何の不安もない。都市住民の孔子は生を恐れるが、庵居の老子はただ愉しむのみ。食事をとって、色気にませて、子をつくり、衰えていくのは、生物の自然の営みです。でも、そうするだけでは人間の生活にはならない。ほかの生物にはない人間独自の智慧を発揮しなくてはいけない。生命の原則を大変革した120年健康長寿の叡智です。その智慧は人間が誕生した20万年前からずっと継承されて、親鸞や良寛を悦ばせましたが、つい先日失われました。それで真剣に安楽死を考えたくなる人があらわれるようになったのでしょう。わたしは考えるのです。安楽死を願うのは「更年期」の生き方を知らないからだ、と。20万年うけつがれてきた生命の智慧がとだえたからだ、と。現代教育が情緒の育成を切りすてたからだ、と。資本主義経済がくだらぬモノやサービスを売り買いしつづけるよう強迫的になるからだ、と。
「更年期」が医学的に不妊・不産を意味するのなら、セックスの問題についても一言しておかなくてはなりません。セックスの話題が嫌いな方は、どうぞここは読みとばしてください。「更年期」を生きられるのは人間だけです。「生殖期」の若者は「更年期」の準備段階を生きているだけなのです。「生殖期」の若者が歓びを追求すると動物的な生に耽溺します。セックスのかたちは、生殖期と更年期では完全に変化します。人間が避妊してまでセックスを求めるのはなぜでしょうか。セックスが動物の生殖行為と異次元の意味をもっているからです。セックスをとおして人間性をふかく探究することができるからです。動物性の幻想に惑乱してセックスに幻滅した若者でも、更年期に真正なセックスに接すると人間性が開発されて覚醒します。人間を人間たらしめるのは情緒です。あらかじめそれがわかって生きておけば、人間として生まれた意義をいつか知ることができます。情緒的な叡智が失われたとしても、今も「はじまりの書」は現存するし、叡智をつたえる賢者も健在です。
                                                   
     
「更年期」の生き方はいま医学技術になりました。生殖期と更年期では、摂るべき食事内容もおおきく変わります。更年期になるとランニングをはじめましょう。ただしいランニングが更年期を生きる智慧をすべて授けてくれるでしょう。ランニングやセックスをとおして脳と身体を健全に保ちましょう。そうすると自律神経が活性化するのでしょう。そして、自分の脳を最大限に活性化しましょう。とくに情緒を司る脳部位が重要です。そのために健全な思想と考え方をまなんで理解しましょう。人間は本来「生きる」ことをよく理解できます。だから寿命を240パーセントも伸ばせるのです。ただし、自分の力で健康寿命を伸ばさなくてはいけません。なんとなく生きて勝手に寿命が伸びた場合には、だんだん自分の扱いに困って安楽死を考えるようになります。だれでもわかる「生きること」がわからなくなり、死がこわくなってしまいます。自分の尊厳を高めて、人生を全うする方法と理論があります。くれぐれも知能にだまされることなく、しっかり情緒をはぐくみましょう。わたしは人生を賭けて医学的治療レベルをそこまで高めようとしています。安楽死を希望するまえに、そんな方法もあるかもしれないとよく調べてみてください。橋田壽賀子さんのよき人生をねがいつつ、この話をひきだしてくれたKさんに感謝をこめて(ゆふ しこを)。