I 「いのちの学校」

心療内科医の遊方之外(ゆふ しこを)です。私は器量が小さい人間ですが、希望だけはとても大きくて、人生を大冒険にしたいのです。裕福な家に生まれて過保護に愛されるよりろくでもない家に生まれて嫌われ虐待される方がいい、賢く気品にみちて生きるより狂気をおびて愚かに生きる方がいい、不自然な料理をおいしいと言わされるより身近な野草をその場で味わう方がいい、他人と競い負かす快楽に酔うより自分ひとりの歓びを大切にしたい、外部の権威に盲従して卑屈に生きるより自分の「いのち」に素直に生きてみよう。その願いどおりに生きて子どものころはすこしつらい思いをしたものの、けっきょく人生は愉しいなぁと思います。現代の教育は「否定」ばかり教えこもうとしています。世の中は自分の思いどおりになりません。思いどおりに生きるなんて、人間にはできませんよ。あなたにはできません、してはなりません、努力してもそれは不可能です。そう思わない私は教職免状をとったものの日本中のどの学校の教壇にも立たせてもらえませんでした。私の願いはどんなに最低な状況からでも立ち上がれる強靱な身体と精神をそなえ、過酷な運命にも向かい合える智慧と魂をもつことです。その修行のために尋常ではない体験ばかり積みかさねてきました。誕生以来そうして生きると、それなりの実力がととのいます。人生でいつもいまが精神も身体も最高潮。知性も右肩上がりに成長してゆくばかりです。私の人生は今後もこんな調子でいくでしょう。人間の人生に教科書はないのでしょうね。試行錯誤で自分の人生を創造するしかないはずですが、人はそう考えたくないようです。理想の人生の生き方という幻想があって、そのとおりに生きているのに、どういうわけか幸福になれないと歎くのです。そういう人々はよく「私にかぎって・・」といいますね。「私ががんになるなんて」「私が認知症になるなんて」「私がこんな目に遭うなんて」が口癖になっている人は生きる智慧を持っていないのでしょう。がんや認知症だけでなく、人生で起きる出来事さえ、コントロールできるという能力が人にはそなわっています。「いのち」の叡智をつかうと、それができるようになるのです。賢いプラトンにかぎってそのことがわからなかった。老いぼれのソクラテスにはよくわかっていたことですがね。哲学が誕生して「いのち」が堕落しはじめると、坂道を転げるように馴致してきました。だから私にもわかる人生の真理があるのです。人生は、思いどおりに生きられるのです。知性というものはろくに役に立ちませんが、「いのち」の叡智は人間や人生のあらゆる難問を快刀乱麻にときほぐす神秘の能力です。どれだけ反発され、反感を買ったところで、私は「いのち」の叡智について語ることをやめません。家族以外に話を聞いてくれる人がいなくなっても、私は「いのち」のために語りつづけようと考えるのです (Dr. Shikoh)



I みんな医学を学ぼうよ

自分が医師になってよかったと思うのは、医者の本音がよくわかるからです。患者をみれば金儲けの手段と思う医者もいますが、大多数の医師は善良な市民で、勤勉で良心的な犠牲精神に富んでいます。それでも残念なことに日本の医師はすこし不勉強で、不養生です。病気や疾患に精通していても「人生の意味」や「生死の本質」や「人のこころ」や「心身一如」や「養生と健康」の卓識もつ医師は見あたりません。高給取りの医師には美食家が多いでしょうが、三大栄養素(糖質・タンパク質・脂質)の理想的バランスや、健康的にダイエットする食事内容に知悉し自ら実践しかつ指導できる医師は稀少です。じっさい、日本の医師は日常生活の健康指導をおこなうのが、驚くほど苦手です。医療現場に身を置いていると、そういう場面をよく目にします。私は、医師を信じるな、と言いたいわけではないので、そこはお間違えなく。ただ、医師の実情と限界をみなさんも知っておくといいですよ、と言いたいし、なにより、みなさんも医学をもっと学んでみようよ、と勧めたいのです。人間にほんとうに必要な医学は、生活に密接な日常茶飯事のなかにあります。なので、本物の医学は難しくもないし、とっつきにくくもない、3万年も人類が頼ってきた医学で、300年後もじゅうぶん通用する医学です。私はその探究と実験にあけくれつつ、湘南で在宅診療の進化医・心療内科医として現代医学を実践しています。ジャン=ジャック・ルソーのように必死に「医者嫌いのための医師」を探している人とであうと飛び上がってよろこぶ遊方之外です。